音声学の試験が難しい理由


 大学の夏学期が終了した。それと同時にドイツ語講座も終了し、今週からは夏期休暇に入る。

大学の試験はまだ結果がわからないものの、ドイツ語講座の成績は既に発表された。4月の

第3週以来、週のうち4日間は総合ドイツ語、水曜のみはPhonetik(音声学)のために使われて

きた。今回はその音声学の終了試験についてお話ししたい。 音声学の試験内容は

  1. ディクテーション 
  2. ある文章を音声学的に正しく読む
  3. リスト上に散りばめられた単語で作文をして読み上げる
  4. 自由なテーマによる5分間スピーチ(長い!) 

の計4点と予告されている。我々のクラスの講師は別のクラスを含め50名という大人数の学生を

抱えていたことから、試験を3日間に分けて、個別の面会時間(各20分)を設け、我々はそれに

合わせて講師の研究所を尋ねることになった。


 水、木、金とあるテスト期間のうち私の試験予定日は最終日の金曜であったため、耳元には

試験が終わった学生を通じて試験内容に関する噂が自然と飛び込んでくるようになった。恐るべき

ことにそうした噂によると、試験の内容が前述の4点とは全く違うものなのである。 ある中国人は

先生から「なぜ中国は全くカルチャーの違う台湾とくっつこうとするのか、(統合など)無理に決まって

いる」という質問を受け、返答に困ったという。またあるスペイン人は一枚の写真を見せられ、その

写真について描写説明するという課題を与えられたが、その写真に写っていたのがキューバのカストロ

議長であったために描写のしようが無かったという。これはなるほど音声学の範囲を越えている。

写真の内容が路上の車やレストランの一般人ならまだしも、特定の人間を、しかもカストロの写真

を見せられて、何をどう描写すればよいのか。


 私は前日にことの真相を確かめようとしたが丁度航空便のトラブルやドイツ語講座主催の遠足が

重なって研究室を訪ねられず、金曜のテスト本番を迎えた。 試験は研究所の地下一階の隅に

ある、薄暗い図書室で行われた。私は5分間スピーチの準備のみに時間を費やし、これでとにかく

ポイントを稼ごうと考えていた。一脚の机を挟んで見つめ合う講師と私。この講師は50代前半の

金髪で、胸の谷間がちらつくようなドレスに身を包み、かけるメガネは赤レンズ、抱えるバッグは豹柄

という、私に言わせれば妖怪チックな女性である。蛇が蛙を睨むという表現はこの講師にこそ

ふさわしい。


 彼女が「好きなのから始めなさい」と言ったので私は文章朗読から始めた。20行ほどある文のうち

5行程度読み上げたところで「次行って」と言われ、予め用意してきた作文を読み上げた。それも

20問あるうちの3問程度で「もういいよ」と言われ、次はいよいよ5分間スピーチかと身構えたが、

出されたのは次のような質問であった「実存主義って何?」ようやく私はこの講師の意図をつかめた

気がした。この講師の手元には我々留学生のプロフィールがある。それをもとに彼女が各留学生の

関心領域に関係する質問を立て、それに答えさせることによって「自然な会話における発音」を

テストしようとしているのだ、と。しかし私がその質問に対して答えようとするやいなや、彼女は「もう

いいわ」と言って席を立ち、机を蹴って図書館の奥深くへと消えてしまった。


 私はその後狐につままれた思いで研究所を後にした。  あれから2週間してドイツ語講座の

事務局から一通の薄っぺらな封筒が届いた。たいしたものは入ってないと思い無造作に手で開けて

みると、中にはスタンプの押された音声学の合格証書が(合格証書は開けた拍子に破けて

しまった)。結果論音声学は無事終了できた。しかしあの試験では一体私の何が試されて、私の

何が評価されたのだろう。実存主義への問いはなぜ答えを聞かれぬまま葬り去られたのか。こうな

ると無力な私に出来ることは今ある限りの情報から、あの講師の人間像を推理することぐらいで

ある。カストロの写真を持っていて、中国と台湾の統合を好ましく思わず、金髪で赤メガネの、

豹ガラのバッグで谷間をちらつかせた50代の女性。犯罪学科所属の学生の方、連絡を下さい。

(終)


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